ノラも思った
やっぱり名作は名作だなぁ。イプセンの人形の家、とても洞察の鋭い作品だった。ノラが過去に愛するヘルメルのために偽証をしてまで借金をしたことをネタにクログスタトという法律家が脅ししてきて、ノラはヘルメルに辛い思いをさせたくないから、ばれないように必死に隠そうと努力するんだけど、けっきょくばれてヘルメルは自分に不都合を招いたとしてノラに激怒、失望する。けれども、その後すぐクログスタトが要求を取り下げて、ヘルメルは安堵しノラを許すんだけど、ノラの気持ちは変わり果てていたという内容。
それにしてもヘルメルはノラを愛していなかったのだろうかと思えば、愛していたからこそ悪意あるクログスタトからの手紙を封切ったときの「怒り」やノラに去られた後の「憔悴」などの激情が垣間見られたんだとは思うけど、それが「愛」として現れてくれなかったこと、それを信じていたノラの「奇跡」、そうしてその奇跡が裏切られた最後にヘルメルの「わたしが他人以上の者になることはもう無いのだろうか」という問いに「奇跡の中の奇跡が起これば」とノラは答え、奇跡の幕引きが=愛情の幕引きではなくて、ノラが言うような「社会の正しさ」や「自己への義務」が完遂された後に再び自由な「真実の姿」になれるということまでが暗示されているようで面白かった。
この作品ではノラとヘルメルの関係が人形的であることを象徴的に指摘しているようだし、法律的なこと、名誉的なこと、道徳的なことに硬直した人間がつまづいている悲喜劇を描いていると思ったけど、これは現代でもまったく変わっていない、つまり「奇跡の中の奇跡」は起こっていなくて、ヘルメルがクログスタトからの要求を受けてノラに「これからは子供を見ることさえ許さない」と言ったのに、要求が下げられると何一つノラの身の上では変化が無いのに全てを許したことが、内容を疎外する形式的な見方であるように、現代でも法律や道徳は形式的なリスクを内容の有無以前に背負わせ、クログスタトの手紙のように空虚なラインを跨いで内実的な関係を甘くしたり苦くしたりしている。ノラが「わたしは他人と結婚して他人の子を産んでしまいました」と言ったように、現代でも空々しい「他人」として関係の向こうの人間は繋がっているにすぎない。
ノラが法律の形式だけの偽証について自分に降りかかったリスクを不自然で非合理に感じたように、現代の実定法も大いに形骸化することを意義としているところがある。わたしも道理を言うより、同じことを法律で言うほうが”効く”ことを実感していたが、本来憲法の精神が息づくなら道理で言えることは法的なことと考慮しなければならない。そうならないのは、実定法にのみ依存し、その明文にのみ縛られる形骸化があることを、見に沁みるほど実感している。それをヘルメルのように明文の向こうを考えず、挫折するどころか、それを遵法だとか道徳だとか名誉だとか積極的に偽りの姿を真相のように語り信仰する者が多く、内容が主張できるのが形式なのに、その真実を犠牲にしているのが実際なのである。これが人形が住む社会であり、奇跡を信じていた者はノラのように自己の義務を感じて去るか、奇跡の中の奇跡として自由に生きられる世の中を待たなければならない。とにかく、いまやらなければならないことは、全てのやり直しだ。
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