B’Zパクり疑惑、「差異」と「相似」の意義
だいぶ長いこと、ネットの掲示板なんかでは、B’Zが洋楽をパクっているのどうのと言われているが、一様にパクられてると疑惑を持たれ批判されている曲の多くが、かなり昔のものであるということは実はすごく重要なことだと思う。
たしかに、その当時の曲はB’Zがリスペクトしてる海外のアーティスト(スティーブ・ルカサーやマイケル・シェンカーなど)の影響を受けた曲が多いのは事実。
ただそれは当人らが認めていて、稲葉が面接で歌ったのもビートルズだしボブ・ディランも好んで歌っている、つまり自分の好みとして認めているという点で「パクり」と言うよりは「影響」と言うべきではないだろうか。また当時は製作に煮詰まると松本はスタジオで好きな洋楽のアルバムを片っ端から聴いたりしたとも言っている。
初アルバムなどは生ギターとか打ち込み方がほぼ洋楽アルバムといってもよくて後続のアルバム群に比べてTMNみたいなテクノっぽさが無い。
しかし、その中でもパクリ性が十分にあるとしたら、B’Zのオリジナル性というのも十二分にあり、良い曲は良いよ(好みの話でこう言うのはなんだけどね)。「RISKY」を聴いた向こうの有名プロデューサーがべた褒めしたのも有名な話。
で、昨今の曲に関しては圧倒的にオリジナルなものが多いんじゃないかな。
それとB’Zが売れてるのはシングルというよりアルバムの充実度だと思うし、ミーハーじゃないファンなら(残念ながら邦楽好きにはミーハーが多いのも事実)アルバムのほうを評価してると思うし、その点でも「パクりだ」と叫ぶ人と認識の前提がズレてるかもしれない。
嫌いで聴かない人が、聴かないアーティストを評価すること自体難しいから、慎重にならないといけないだろう。わたしとしてはB’ZのシングルメドレーがMステとかで流されると恥ずかしくなる、わたしの抱くイメージとも異なるし、キャッチーなシングルのアップテンポなサビだけ切り取られるとB’Zの曲のメロディアスな部分が伝わらないし、単なる高周波に聞こえる(つまり音階よりは、一般的なキーの高さが先になる)。
だから基本かもしれんけど、歌っていうのはイントロアウトロも含め歌詞も含めサウンドや抑揚も入れて聴かないと沁みないものだと思う。パクりと言うのはまさに一部分だけパクって聞くということじゃないかな。それに、文化というもの自体が評価ありきで進展することを考えれば、評価したものの自然的反意図的な後継=ある種の模倣の連続だろう、それを著作権法が安易に断ち切るなら、文化の破壊に他ならない。(純粋に意図的な模倣かどうかは音楽活動全体を見る)
従って、この法は損害の現実的な発生の価格的補整に終始すべき。
芸術だからといって、何も無いところから生まれるものではないだろう。天才と呼ばれるダヴィンチだってまずは絵画を習ったわけで、その習うなかで気に入らない箇所、従いたくない箇所「わたしはこう描きたくない=こう描きたい」が見えてくるわけで、その差異こそがオリジナリティーだと思う。(売れているか売れてないかの差異が商業的だとすれば、好みか好みでないかの峻別はオリジナリティー=感性の問題だろう)
だから、芸術家にも勉強期間がある。オリジナリティーが出てくるまでは、スタイルが既存のものとどこかしら似る部分は仕方ないだろうし(その点で昔のB’Z作品のいくらかは誰かに似ているのだろう)、それをパクりだとバッシングしたら芸術家は育たないし、これまた著作権法の誤用と同じように根のある文化の破壊につながる。
わたしは芸術は自由の象徴であり、自由とは芸術に象徴されるものだと思っているから、似る似ないで自由を削がれた芸術など芸術じゃないと思っている。自由を保護するために論理があり、自由を制限する根拠が求められる。よく「言論の自由」というが、もし論理自体に自由が認められるなら根拠でなく「決め事」をして終わりである。だからすべては自由に向かい、この世界は論理的と同時に終局的には芸術((自由・主体))的に構成されると思う。であるから、文化形式の破壊という表面のみならず、それが芸術の本質への道を閉ざすという弊害を言うわけで、論理的に評価できる部分と、できない部分(自分の感覚)を見極めなければならないと思うわけである。
話をB’Zに戻すと、もしこのバンドが日本ではなく、海外のものだとすれば、洋楽のパクりだという批判は受けなかっただろう。現にフェンダーからは松本モデルが造られ寄贈されているように、B’Zがパクりかどうかという評価は日本において起こりうる現象のように思う。これは洋楽とB’Zの曲が似ている部分が誰の目にも明らかだというのであれば、彼らの曲はパクりというよりは、影響という文化的系列に置いて認知されたということを物語っている。
いずれにしろ、文化の扱いはこのように慎重にならなければならないし、そのためには「差異」という感性と「相似」という文化系列が峻別できていなければならない。
P・S、ですから、音楽を聴くという場合にも純粋に受身で聴くということはありえない。差異を見出す(そこに価値を見る)ということは個々の創造的感性が担い、相似を聴き取ってしまうのはその逆である。もちろん、それは互いに補い合うものであって、”創造的”と言ったのは一つの曲の中にその両者が現れるわけではないという意味でもある。だからこの相似と差異は曲に内在する相似と差異とは違うものである。もし同じであれば同じドレミファを使っている時点ですべては相似だと思うだろう。
また、そのことから相似ということが起こるのはかなり大きな単位(単子、単色)で認識しているからだということがわかる。たとえば一見矛盾する「共通的特徴的」なリフをまず捉えるおかげで、時代音楽や音楽ジャンルというものができる。逆に、同じ単位の幅という理屈から時代やジャンルを越えて享受することもできるわけで、似た曲を同時に楽しむこともできれば、それこそカバー曲を楽しむこともできる。
曲の客観的な差異と相似の問題は常に、聴き手が大きな単位で該当の曲を捉えているか、それとも小さな単位で捉えているかにかかっている。それを見分けるのは、ジャンルや時代や場所やアーティストで絶対的に区切って聴いているかそうでないかによって分かるし、科学的にはドレミファやテンポの合致のパーセンテージが認知のパーセンテージと大きくズレている、たとえばパーセンテージが高いのに「似ている」と認識できない場合に見分けられる。
つまり、それは客観的な相似から脱し感性的な差異を見出しているにも関わらず、客観的な相似を見出せないでいるわけで、要はあの「全体」と「個別」を具有するという矛盾の表象をもつ様々なジャンル分けという「共通的特徴」に依存しているわけである。それは、客観的な相似を見出せない以上、具体的に創造していくということができず、芸術というものを徐々に硬直化させていく担い手であるから、これは文化を堕落させる者といえるだろう。
いずれにせよ、何度も言うように、感覚的な差異と相似は創造的な感性が担う領域だから、先のような差異と相違とはまったく異なるということを見分けることを芸術を享受する上ではまずできなければならない。これを見分けるのは、先のとは違い「好み」か「好みでない」かである。芸術文化における共通認識のズレは、この好みか好みでないかの差異と相似を科学的なそれらと混同していることにある。先のものが相似・共通する「部分」へ向かう認知ならば、差異は個々の感性単位にまで拡張するという意味で「全体」へ向かう認知であり、互いを前提にすることがあっても、まったく別の所作である。
全体へ統合できるというのが感性の問題なら、部分は音符を介在した数学的事実性である。
だから、その類型はキッチリわかれると言っていい。「好みでない」と言って批判する者には相似が目に付き、「好み」を主張する者はそれに反対する摂理になる。そして、前者は混同の責任があり、後者は依存の責任が”ありえる”ということになる。
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コメント
フェンダーじゃなくてギブソンです。
投稿: 名無し | 2009年3月23日 (月) 14時41分
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まともに仕事しなくても余裕だしウハウハすぎwwww
投稿: パチン-コ最高ーーー!!! | 2009年5月 7日 (木) 03時10分
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3Pウマすぎーー!!!!!あっもち二人とも女な^^
俺完全にマグロ状態だったのに、5万ずつもらえたしwwwww
てか、二人で俺のティンコ奪い合ってる時は興奮絶頂すぎたよーヽ(´ー`)ノ
投稿: ふぁーーーっくwwwwww | 2009年5月10日 (日) 11時50分
うぴゃー!!! 一回だけで6万くれたあぁぁwwwwww
金玉交互にキュポキュポ咥えながら高速手コキされたもんだから
即イキしちゃったのがちょっともったいなかったな(^^;
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投稿: ちょwwおまwww | 2009年5月17日 (日) 06時15分